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江戸時代中期、零細な家内製造だった味噌を、商品として企業販売ルートにのせた最初の人は、
元和二年(1616年)府中の豪商・木綿屋の当主、大戸久三郎であったと言われています。


備後北部、岡山県北部地方の良質の大粒大豆と、芦田川流域の最上級の米、府中周辺独特の清澄な
水によって醸し出される白味噌は、他に類を見ないものでした。古い記録によれば、奈良で開かれた博覧会に
「白味噌」を出品し、最高賞を獲得して全国に名を馳せたとあります。

しかし当時の流通機構からみて、いかに優れた産物でも全国的な販路を得るためには、特殊な条件が必要なはず。府中にはそのための様々な条件が揃っていました。
府中は山陽道から出雲道への要衡の地で、諸国人の出入りが多く、それらの旅人のみやげ用として郷里に持ち帰られたことと、地場産業の業者が取引先へ進物として用いたことです。
さらに決定的な販路拡大の要因は、諸国諸大名の口コミでした。大戸久三郎から白味噌を献上された福山藩主水野公は、その絶妙な味を賞し参勤交代の道中、山陽道、東海道の道筋の諸大名に白味噌を贈呈しました。
諸大名はその味を賞讃し府中味噌を競って注文。かくして「府中に味噌あり」と、特権上流階級を中心に全国に名を馳せ、今日の名声の基礎をつくったものでした。

京の都には、味噌を売る店が朝廷によって開かれていましたが、当時味噌は貴族にしか口に入らない高級品でした。

このころの味噌は乾いた納豆のようなもので、食品につけたりそのまま食べていたようです。


京の都には、味噌を売る店が朝廷によって開かれていましたが、当時味噌は貴族にしか口に入らない高級品でした。
このころの味噌は乾いた納豆のようなもので、食品につけたりそのまま食べていたようです。
鎌倉時代に入って作られた「味噌汁」。
ご飯・味噌汁・おかず、という栄養バランスのとれた武士の食事は、今でも私たちの基本です。
戦国時代には大切な栄養源として諸大名は競って味噌づくりに力を入れました。
平均寿命が37〜38歳だった時代に、75歳の長寿を保った家康は毎日大根などの実がたっぷりと入った味噌汁を
欠かさなかったと言われています。代々の将軍も食膳には味噌汁をいつも用意させ、長い江戸時代の幕府の力
は毎食の味噌汁が作り出したのかも知れません。



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